最近、変化のない日々を送っているので、ブログのネタに行き詰っていました(-_-;)
そこで、「過去のブログ記事をまた載せよう!」という安易な発想で(^^;
旧ホームページの過去記事からピックアップして、加筆訂正、新たな視点で再掲したいと思います。
2017年2月公開記事より
私の母方の祖父は、私が3才の時に74才で亡くなりました。
7年ほど前に、母からあらためて祖父の昔話を聞きました。
祖父は漁師で、亡くなる前まで素潜り漁をやっていました。
温厚で信心深い人でした。
村の鎮守神社(山田の産土神社でもある)の氏子総代を20年くらいやって、浄土真宗の仏徒としても熱心でした。
当時は不動尊信仰が流行っていたようで、東京都目黒区の目黒不動尊から取り寄せてもらったという不動明王像もお祀りして、朝晩拝んでいました。
祖父は霊能があったらしく、お不動さまが祖父に降りると、武士の言葉になったそうです。
村人に頼まれて加持祈祷(病気治し)をしてあげることもよくあったそうです。
ただ、祖父の偉いところは、決してお金はもらわなかったということです。
実は、山田の母が子どもの時、母親に連れられて祖父の祈祷を受けたことがあるとか…(これも数年前、山田の母から聞いた話です)。
しかし、祖父がお不動さまを拝んでいることを菩提寺の住職が快く思わず、ある時、「破門する」と言ってきたのです。
それで、人を立ててお寺に詫びを入れて、「今後はやらない」ということで許してもらったそうです。
その後は、お不動さまの棚は閉めたものの、こっそりと朝晩拝んでいたそうです。
祖父母の死後、お不動さまは私の実家で祀ることになりましたが、数年間、よそにいた時期がありました。
村の拝み屋さんが、「このお不動さまは力があるから、自分のところで拝ませてほしい」ということで、数年間、その人に貸していたのです。
ある時、母は親戚の霊能ある女性から、「あなたは大事なものをなくしている」と言われました。
「大事なもの」と言われて、お不動さまのことかと思い、「返してください」と頼みにいって、返してもらったそうです。
それからお厨子をきれいに修復して、現在も実家に祀っています。
3歳で亡くなった祖父の記憶はあまりないのですが、祖父は徳のある人だったと、ずっと思ってきました。
そんな昔話を事務所でしていたら、山田が「あれ? ちょっと待って…」と急いで笏をもって、おうかがいしました。
「おじいちゃんは、あなたの高級守護先祖霊団の1人になっているね!」
私の頭上がキラリと光ったので、あれ?と思ったそうです。
Oさんも、「たしかに光りました」と言います。
きっと祖父が喜んで、「ここで守っているよ」と教えてくれたのでしょう。
(※祖父母は守護霊さまにはならないのですが、高級守護先祖霊団にはなることがあるそうです)
ちなみに山田の話では、実家のお不動さまは時々、(当時の)神業にも参加されているということでした。
そして、神さまのお話では「三世のご開運講座や原則界業に参加できる会員は、先祖に徳を積んだ先祖がいて、その徳に感応しているから参加できるのだ」ということです。
同じ先祖をもつ兄弟姉妹でも、神仏に関心をもっている人が、その徳をキャッチして、講座に参加できる機会を得られるということです。
不動明王さまは私の守護曼荼羅の1柱として、現在も守護してくださっています。
さらに、その続きの話です。
母の村の鎮守神社の奥宮は岬の小高い山の頂上に鎮座しています。
「金毘羅(こんぴら)神社」です(山田の産土神社の奥宮であり、山田の産土の大神さまはこの奥宮を拠点にしています)。
香川県金刀比羅宮の主祭神は大物主大神さまで、海の神さまです。
金毘羅宮がいかに隆盛を極めていたのか、熱心な信仰を集めていたのか(特に漁業関係者)、
今から想像もつかないほど繁栄した時代があったようです。
祖父がお宮の氏子総代をしている時に、奥宮の金毘羅神社の社殿をちゃんと造ろうということになりました。
それまでは簡素な祠だったのでしょう。
それで船乗りである自分の弟たちにも寄進してもらって、奥宮の社殿を建てたそうです。
ある時、弟が船で操業していると、深い霧が出て、遭難しそうになりました。
それで、「金比羅さま!…」と一心に念じたら、霧の中に一筋の光明が見えました。
その光明を目指していったら、無事、霧を抜けて港に着いたという話です。
母が子どもの時に聞いたので、もう80年以上も前の話です。
昔はいろいろなお蔭話があったのですね。
皆さんも、親や親戚からあらためて、昔の話を聞いてみませんか。
おもしろいエピソードがあるかもしれませんね。