7月1日、山田の母が99歳で亡くなりました。
老衰のため、介護施設で静かに息を引き取りました。
見事な大往生です。
昨年9月頃から、「体が弱っていて危ないようだ」ということで、
私たちも10月に福岡までお見舞いに行ってきました(福岡旅行前編)。
その時はまだ会話したり、いっしょに歌ったりする元気はあったのです。
でも、体力気力が弱っているので、いつどうなるかわからないと覚悟はしていました。
今年5月末に、「食事がとれなくなってきている」という連絡がありました。
6月14日の講座を目前にしていたので、なんとか持ちこたえてほしいと願っていました。
だから、講座を無事終えられた時は本当に安堵しました。
義母は小康状態のまま、6月いっぱいがんばりましたが、
7月1日になって福岡の弟から、亡くなったとの連絡が入りました。
ああ、ついに、という落胆と、「お義母さん、今までよくがんばったね」という感慨がこみあげました。
4日に福岡で葬儀が行われたので行ってきました。
子や孫たち、ひ孫、そして親族で20名ほどが集いました。
(福岡は地元ではないので、身内だけのお葬式です)
棺の中の義母は昨年会った時よりもさらに小さくなったようです。
しかし、99年の生涯を生き切った安らかな顔がそこにありました。
義母は故郷から離れたくないということで、
95歳までは田舎で一人暮らしをしていたのですが、
体が不自由になってきて、そのうえコロナ禍もあり、
福岡に住む子どもたちのところに行かざるをえなかったのです。
それから3年あまり、施設でおだやかに暮らしてきました。
小さな仏壇を部屋に置いて、朝晩にご先祖さまに祈り、念仏をとなえていました。
義母は望郷の念が強く、「家に帰りたい、帰りたい」と言って涙を流していました。
故郷の情景を思い出しながら描いたえんぴつ画は、
集落の家々、細かい路地、遠くの島影など詳細で絵心もあり、感心したものです。
故郷に帰りたいという願いをかなえてあげたいけれど、現実には無理がありました。
(お義母さん、これでやっと家に帰れるね…)
お葬式では花に囲まれた祭壇の上のほうに、阿弥陀如来さまの掛け軸がかけられています。
式が始まり、浄土真宗のお坊さんが読経してくださいました。
私が山田に、「お母さんは来ているの?」とそっと耳打ちました。
「来ていないので、今から呼ぶ」と、山田が小さい声で警蹕をかけました。
すると、母が自分の棺の上のほうに来たそうです。
タマではなく、生前の姿だといいます。
山田の話です。
「母のタマシイは守護のご存在たちとふるさとの島に帰っていました。
そこで、私がふるさとから葬儀場に呼んだわけです。
また、阿弥陀如来さまの掛け軸が小さかったので、
『阿弥陀如来さまはおられるのかな?』と思ったのですが、
やはりおられませんでした。
それで、私が山田家・柴田家(母方)に縁ある阿弥陀如来さまと二十五菩薩をお呼びしました。
すると、お掛け軸の場所に顕現されました。
阿弥陀如来さま方が突然来られたので、母はかなり驚いていました(笑)」
式の最後に喪主ごあいさつがあります。
山田の兄が母の生涯と、人となりを語りました。
そして、最後に母へ贈るということで、
ふるさとの小学校の校歌を兄弟姉妹みんなで歌ったのです。
小学校は母も卒業して、山田はじめ兄弟姉妹が通ったところです。
母は3番まで歌詞を憶えており、お見舞いに行くと皆で唱和したものです。
そうして告別式が終了し、火葬場に移動しました。
火葬が済むまで親族の待合所で2時間ほど待機します。
その時、山田が兄に「霊視した内容を話したい」と言いましたら、
「ぜひ、みんなに話をしてほしい」ということで、
山田が今日どういう状態になっていたか、一同に解説しました。
(兄や義姉、弟は山田の講座を受講したことがあるので、理解があるのです)
山田が、「今、そこに来ています(部屋の天井近く)」と言うと、
「え? 私たちを見ているの?」とみんなが驚きました。
母は観世音菩薩さまに連れられて、この場に来ていました。
母は最初、葬式の祭壇のところに来ていなかったので、棺の上空にお呼びしたこと、
阿弥陀如来さまや二十五菩薩が来てくださったことなどを話すと、
みんな、「ほうー…」と感嘆していました。
そして、「校歌を歌いましたが、母はそれを一番喜んでいました」と話すと、
みんなから、「よかった~!」と拍手が起こりました。
義母にとっては校歌がいちばんうれしかったみたいです。
生前から、校歌を歌うと義母はたいそう喜んで元気になったものです。
「阿弥陀如来さまから、《責任をもって、あなたの母をいずれ浄土に連れて行ってあげますから》ということです。
それはひとつには、今までの長年の信仰心に報いるということです」
(大きな拍手)
浄土真宗で祀るのはご本尊の阿弥陀如来さまお一方なのですが、
実際は観世音菩薩さま、勢至菩薩さま、虚空蔵菩薩さまなど、二十五菩薩をしたがえています。
「阿弥陀如来来迎(らいごう)図」というのがあります。
死んだ時に阿弥陀如来さまと菩薩さまが降りてきて、死者を救済するというものです。
山田はまさに「阿弥陀如来来迎図」のような光景を目にしたといいます。
それは、義母の長年の信仰心と、「他人の世話をする」など徳があったからでもあります。
山田の話です。
「母の実母(祖母)はとても信仰心が篤い人で、村の長者のような人格者でした。
死後には13年目で、阿弥陀如来さまのお側で働けるようになったのです。
祖母の徳が実の娘の母にもよい影響を与えたと思います。
私自身も祖母の影響を受けて、神仏の世界の仕事をしているわけです」
ふつうの人は亡くなると、本人の守護曼荼羅のご存在たちが迎えに来てくださいます。
今回は山田がお呼びしたので、特別に「阿弥陀如来と二十五菩薩の来迎」になったのです。
義母は朝夕に仏壇を拝み、仏飯等のお供えは欠かさず、仏前には常にたくさんのお花を飾っていました。
そういうこともあって、特に仏さまにかわいがられていたようです。
ミロク北辰の大神さまからは、
《人生ではいろいろ苦労もあったけれど、
最後、無事に天寿をまっとうするということは、人間にとってはありがたいことなのだ》
というお話でした。
母が見ている中で、きょうだいたちで今後の予定や祭祀についての相談をしました。
母から、“ふるさとの先祖のお墓に入りたい”という強いメッセージがあったので、
その意向を尊重することになりました。
神仏からは、《霊的な面ではなんの心配もいらない》ということです。
山田の話です。
「実母の葬儀において、阿弥陀如来来迎図のようなことが起きたのは、
(通常はありえない)神仏の大いなる慈悲でした。
私も長年、神仏のご開運を行ってきた甲斐がありました。
霊的な親孝行ができて、私も安堵しました」
(初七日編につづく)
なお、葬儀告別式はすでに近親者のみで執り行っておりますので、
お香典、供物等のご厚意は固くご辞退いたします。
